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肉用牛の歴史

明治以降

  昭和30年代中期までの肉用牛は役肉用牛と言われた。役肉用牛は、農業副産物や野草等を与えて飼育し、農耕や運搬に用い、糞尿は堆肥として利用して金肥を節約し、飼育中に生まれる子牛や使役の後に肥育された牛は貴重な現金収入になるなど、この時代の自給的な農業経営の中ではなくてはならない重要なものであった。

  ペリーの来航以後、外国人の居留地で牛肉需要が起こり、東京芝の白金に屠牛所を設けて牛肉の供給が行われている。この牛肉納入業者が牛鍋屋を始めたとも言われている。

  明治に入ると廃用牛を用いて牛鍋やスキ焼が一般大衆にも広まり始めて、明治6〜8年には地方都市にも屠牛所が作られた。明治17〜18年には兵庫、滋賀、三重、山口、愛媛で牛の肥育が始まった。また明治19年には牛肉が軍隊の食糧になり、日清、日露の戦争から帰還した兵士たちにより一般の消費が著しく拡大した(表1)。

表1:明治時代の牛肉生産量
年次 成牛屠殺頭数(頭) 枝肉生産量(トン)
1877(明治10) 34,000
1882 36,000
1887 105,700
1892 100,600
1894(明治27) 143,900 19,500
1896 145,100 21,900
1898 157,900 24,300
1900(明治33) 222,800 30,600
1902 196,900 27,200
1904(明治37) 287,700 37,900
1906 158,500 23,900
1908 138,600 22,000
1910 246,700 38,800
1912(大正元年) 261,100 41,200
(出典:日本肉用牛変遷史(昭和53年3月))

  明治2年には、乳肉兼用型のショートホーン種が輸入された。この牛は特にその後の役肉用牛に影響を及ぼすものではなかったが、牛肉の消費が拡大するにつれ明治20年代には外国種と在来和牛との交配が検討され始め、シンメンタール、ブラウンスイス、デボン、ショートホーン、エアシャー、ホルスタイン等の外国種が輸入された。明治33年には種牛改良調査会が在来和牛の外国種による改良方針が決まり、シンメンタールとエアシャーが交配されることになった。その後10年間にわたり外国種が盛んに交配されることになった。特に日清、日露の両戦争による牛肉消費の拡大は雑種の生産に拍車をかけることになり、雑種万能時代と言われる時期がきた。

  このようにして生まれた雑種牛は体重や乳量は増加したものの、雑多で鈍重なため農耕には使いづらく、肉質も概して悪く雑多で、日本の飼料にもなじまないものになったため、明治末期には雑種恐慌時代と言われる時代になった。明治45年に臨時産牛調査会はこれらの雑種の長所を生かし、短所を補い、日本の農業に適した牛にするための基本方針を示した。

  これらの多くの雑種牛は改良和牛と言われたが、大正元年から地方の実情に合わせて各県で独自に目標をたてて改良することが奨励され、大正6年から4年間に中国地方や九州地方において本格的な牛の改良が行われるようになった。また、明治中期までは、役肉用牛の乳も利用されていたが、大正初期には乳用種と肉用種は完全に分かれた。大正時代に入ると都市への人口流出や徴兵及び軍馬の徴用により農村の労働力が不足して役肉用牛は益々重要になり関東東北にも広まった。

  日清、日露の両大戦により牛肉消費は著しく拡大したが、大正時代には第一次大戦後の好況により一層消費が拡大し、国産牛肉の不足が問題となった。大正6年から10年にかけては、年間の平均で6,400tの青島牛肉等が輸入され、30,400頭もの朝鮮牛が輸入されるようになり、大正7年からこれらに対する免税措置が講じられた。役肉用牛の肥育は各地に広まり、ワラと米糠、くず穀物及び醤油粕などを用いた肥育が行われ、大正末期には満州大豆粕の利用法が研究されて使われるようになった。

  昭和初期の農村恐慌により農業経営は著しい影響を受けた。そのような中で役肉用牛は田畑を耕す労力や、堆肥生産による金肥の節約は当然として、老人や婦女子の労力活用、野草やくず穀物、米糟など農業残滓の活用、生まれる子牛と使役後に肥育される牛による貴重な現金収入等、自給的農業における価値が高く評価されて有畜農業が奨励された。その後も役肉牛頭数は増え、昭和15年には206万頭になった。

  役肉用牛の改良は、各県が役6、肉4とか役5、肉5といった独自の目標を立てて進めてきたが、昭和10年には各県の審査標準に大きな違いがないことが分り、昭和12年から黒毛和種、褐毛和種、無角和種の3つに分けて全国で統一された登録が開始された。これらが和牛3品種の原型となった。

  昭和7〜8年になると雄の去勢牛肥育試験が各地で行われるようになった。
昭和13年の牛肉生産では雌7、雄2、去勢1の割合になった。また肥育を始める年齢も若くなる傾向を示し、明治中期では、雄雌とも6〜8才に集中していたが、大正時代には雄は3〜5才、雌は5〜6才になり10才を越えるようなものはなくなった。大正、昭和の肥育方法はこれらの牛を1頭ずつ飼う単房式で、床を深く掘り敷料を底に敷き、敷料が汚れるたびに新しい敷料を積みかさねる深厩(ふかまや)踏込み式と言われる牛舎で1戸につき1〜2頭の小頭数が飼われていた。肥育期間は半年程度であったが年齢の大きな老廃牛は1〜2ヵ月で少し体脂肪をつけて出荷する程度であった。

  肥育飼料は米糟、くず穀物、大豆粕等にワラを混ぜたもので肥育が進むと大麦を混ぜたりした。3才あるいは5〜6才まで野草を主体に与えた牛の枝肉脂肪にはカロテンなどが蓄積して濃い黄色であったので、これを白くするためにカロテンの少ないワラが良い粗飼料と考えられた。大麦の給与は、硬い枝肉脂肪をやわらかい粘りのある良い脂肪にするためであるとも言われている。貴重な飼料を有効に使うために、飼料に水を混ぜて練った練飼、水に溶かしたドブ飼、煮た煮飼などの工夫がされていた。

  このように役肉用牛頭数は増加を続けてきたが、昭和12年には日華事変が起こり昭和16年には太平洋戦争が起こるなど戦時色が強まった。昭和16年からは統制経済にはいったが、この時期から飼料事情が悪化し役肉用肥育は減り始め、昭和19年には完全に行われなくなった。この間に青島牛肉の輸入は止まり、牛は軍隊の食糧として大量に屠殺されるようになった。

  終戦の1年後の昭和21年には肉牛頭数が181万頭に減ったが、大量に屠殺された結果、淘汰も進み昭和19年に和牛3品種は固定された品種になった。日本短角種が固定種となったのは昭和32年である。昭和20年の終戦から昭和24〜25年は戦後の食糧増産期と言われ、昭和22年の農地解放と自作農創設により農家の生産意欲が極めて高まった。また、26年頃から統制経済から自由経済への移行が始まり、昭和27年には麦の統制が撤廃され、化学肥料の利用も増え始めた。昭和29年にはMSA協定が締結され、アメリカからの輸入穀物が家畜飼料に使用されるようになり、急速に普及した。これと同じ頃から耕運機の普及も始まった。食糧増産期には役肉用牛が大きな働きをし、その後も和牛ブームは続き、昭和32年には272万頭の史上最高の頭数を記録した。自由経済への移行に伴い昭和25年頃から役肉用牛の肥育が復活し、朝鮮特需景気の影響もあり、牛肉消費は拡大を続けた。

  しかし、昭和31年には鉱工業生産が戦前水準に回復し、さらに好景気が続き、前期経済高度成長期に移行していった。輸入穀物により食糧の安定的な確保の目途が立ち、また農村と都市との所得格差が広まったために、昭和30年代前半は農業の曲がり角と言われる農業の近代化を模索する時期であった。役肉用牛は役・肥の役目を耕運機と化学肥料にあけわたして、大量に市場に放出された。これらの大量で安い素牛と輸入穀物を用いて昭和34〜35年には空前の肥育ブームが起こり、肥育規模も急速に拡大して現在の大規模化し専業化した肉牛肥育経営の始まりとなった。しかし、肥育ブームが資源の食い潰しの形で進んだため将来の牛肉資源の枯渇が心配されるようになった。

  この時期を経て昭和36年には適地適作、規模拡大と専業化等を柱にした農業基本法ができ、37年には農業近代化資金の創設や農業法人の創設等を通して農業基本法の実現が図られた。肉牛肥育経営はこれを積極的に取り入れて規模拡大と専業化を進めていった。

  昭和37年に、役肉用牛関係者は役肉用牛を日本独自の肉専用種に変える事業を始めた。これを和牛維新といっている。その基本となった思想は、役肉用牛は農耕等の使役を考えて体の大きい鈍重な牛をさけてきたので、体は小柄で外国種より増体が少ない。しかし、明治時代に輸入された大型の外国種の増体能力と在来和牛の肉質を備えた牛は多く残っており、選択と交配が適切であれば日本独特の肉専用種は比較的短期間にできるとするものであった。

  この考え方に従い、まず審査標準が体積に最重点をおいたものに改正され、これを基に新しい集団育種事業を開始した。また、種雄牛の産肉能力検定事業を発足させ各地で検定が始まった。牛枝肉の取引規格も作られたが、これは流通の合理化に資するものと言うだけではなく、どんな枝肉を目指して牛を改良するのかとか肥育技術の改善をするのかと言った肉牛の生産面でも極めて重要なものになった。やや遅れて日本飼養標準も作られた。これらはその後に改正がなされたり、それぞれ枝分かれし、範囲を拡大してきたが、現在行われている多くの事業の原型となった。

  肉牛の肥育では従来の使役に使った後の成牛肥育に変わり、発育中の若い牛を肥育し若い月齢で出荷する赤肉生産効率の良い去勢牛若齢肥育(18ヵ月齢450kg出荷)が主に奨励された。また、一部の高級牛肉需要に対応するためには系統の良い去勢牛を用いた去勢牛理想肥育(24ヶ月齢600kg出荷)が推奨され、それまで行われてきた2〜3歳で肉質がとくに優れた処女雌牛を用いた雌牛理想肥育は資源保護のためにつつしむよう指導された。

  これらの肥育様式は、上坂章二氏らにより昭和28年頃から試験を繰り返して準備されたものであったが、またたく間に広まり肥育の中心になった。また雌子牛は資源保護のために肥育しないように指導された。

表2:昭和40年当時の肥育の様式
区分 開始時 肥育期間(日) 仕上げ時体重(s)
年齢(才) 体重(s)
雌牛 理想肥育 明け2〜3 370〜420 300〜360 600〜700
普通肥育 3〜6 340〜370 150〜180 550まで
老廃牛肥育 8〜11 350〜400 約100 500〜550
若齢肥育 離乳後 180 360 500
去勢牛 理想肥育 2〜3 200〜230 500〜540 600〜700
壮齢肥育 2〜3 370〜420 150〜180 600前後
若齢肥育 離乳後 160〜200 330〜360 500前後
雄牛肥育 離乳後 200 360 600
(出典:肉用種和牛全構)

  和牛維新の成果は、昭和42年に行われた第1回の全国和牛産肉能力共進会で集約された。すなわち、和牛の産肉能力は著しく改善されたとして若齢肥育の目標体重は18ヵ月齢で500kgに変わり、さらに550kgに変わった。また、理想肥育は24ヶ月齢で650kgに変わり、さらに700kgに改められ、現在は670kgになっている。この間の肉牛の改良は肉質を維持しつつ増体を大幅に改善しようという考え方で行われた。

  昭和40年代は経済の後期高度成長期に入り牛肉需要は伸びつづけた。肉専用種の頭数は昭和39年の155万頭を底として昭和45年には163万頭になったが、この後資源食い潰しの形で少しずつ減少が続いた。昭和47年にはオイルショックの影響で牛肉消費も一時的に弱まったがその後間もなく回復し、昭和49年には137万頭になった。このことから肉専用種だけでは将来の牛肉はまかなえないとして牛肉資源をめぐって議論がたたかわされた。

  その結果として、昭和30年代中期から試験的に始められた乳用種雄子牛の肥育が急速に普及し始め、昭和48年には国産牛肉の2/3強が乳用種の牛肉で占められるようになり、これ以後は70%を超える状態が続いた。乳用種ははじめ雄のままで肥育され、出荷月齢も15〜16ヶ月齢であったが、去勢して管理をしやすくし、それなりに肉質の良いものを狙うようになり、肥育期間は18ヵ月齢になった。肉専用種の若齢肥育は、乳用種の肥育にその座をあけ渡して理想肥育に変わっていったが、昭和40年代中期には、理想肥育の出荷月齢を大幅に越えるものも現れ、若齢肥育と言う言葉は若い牛を肥らせて若い月齢で出荷する本来の意味から単に若いときから肥育するとか、乳用種の肥育を意味するようになったりして次第に曖昧になり用いられなくなった。同時に、理想肥育と言う言葉も松阪肉を作る肥育とか肉質を良くするためとくに長く飼うという程度の意味になり、次第に消えていった。

  肉専用種の肥育期間が延びた第一の理由は、素牛が高くなり元手を取るためには少しでも肉質を良くする必要があったことと、乳用種の牛肉が増えたために肉用種ではこれより一段と肉質を良くする必要があったためであり、肉専用種の改良も増体から肉質に変わっていった。第二の理由は急速な規模拡大で良質な粗飼料の生産が追いつかず手軽で安いワラだけの給与に変わったが、ワラの嗜好性は低いために濃厚飼料の過給となり消化管を中心とする病気が多発した。やむを得ず濃厚飼料を制限してワラを食い込ませるようにしたために増体速度が遅くなり肥育期間が長期化した。

  昭和40年代の牛肉資源としては草資源の利用性の良い外国種を導入すること、外国種を肉専用種に交配して肉量を改良すること、外国から肥育素牛を導入することなどが検討された。

  外国種を導入して草資源を活用する試みは、アバディーンアンガスとヘレフォードを導入して北海道や東北北部で行われた。外国種と肉専用種の雑種子牛の利用は多くの試験が行われたが、実際にはわずかしか行われなかった。乳用種にシャロレーを交配することも行われたが、子牛が大きすぎて難産が多かったために行われなくなった。ブリティッシュフリージヤンの肥育も試みられた。肉用種の外国種による改良については、再び明治時代の雑種混乱期を再現するのみで、その収拾には再び100年を要するとして退けられた。外国産素牛の導入は関税免除処置がされて、昭和47年度から盛んに肥育が行われた。

  昭和50年代は経済の安定成長期であり、牛肉の需要が強かった。畜産物全体では需要の大きな伸びが期待できない時期に入り牛乳の生産調整も始まったが、牛肉は唯一需要の伸びが期待される畜産物と言われ、子牛価格も高騰した。酪農家は生まれた子牛を肥育素牛としてできるだけ高く売ることを考えて黒毛和種を交配したF1子牛を生産するようになり、肥育農家も高い肉専用種の素牛の導入から一部をF1に切り替える傾向も現れた。また繁殖肥育一貫経営も広まり始めた。しかし、高い素牛の反動で肥育経営は苦しくなり、その反動で昭和56、57年には子牛価格が暴落し、この状態はかつてない長い期間続き回復も緩やかであった。

  牛肉消費面では、国産牛肉の価格が諸外国に比べ高いことが消費者やマスコミから批判の対象にされた。またアメリカ、オーストラリアから牛肉の輸入自由化を求める要求が強まったが、昭和57年には輸入牛肉の枠を大幅に拡大することでアメリカとの合意ができた。一方では国産牛肉対策として昭和28年から続いた酪農振興法を改正して酪農及び肉用牛の振興に関する法律とし、大家畜は休耕田や草資源の活用や化学肥料で地力の下がった土地の地力回復など、土地利用型農業の基幹と位置付けて耕種部門との調和のもとに大幅な増頭を計ることとし、牛肉生産コストは3割程度下げることを目標とすることにされた。

  昭和63年にはアメリカの市場開放を求める要求は米等を含む農産物や自動車部品まで含む形となった。このような中で輸入自由化の方針が決まり、3年後にあたる平成3年度に牛肉輸入自由化を完全実施すること、それまでの3年間は完全自由化の時点で予想される輸入量を目途として毎年輸入枠を拡大することになった。牛肉輸入自由化の方針が決まった昭和63年には、牛枝肉取引規格が従来の肉眼でみて判断する抽象的表現からBMS(脂肪交雑標準モデル)、BCS(肉色標準モデル)、BFS(脂肪色モデル)及び生肉歩留基準値を枝肉測定値から計算する等の具体的な物差を取り入れ客観性を重視した基準をに変わった。

  また、この当時の国産牛肉の目標は安全良質な牛肉を低コストで生産することとされ、具体的には乳用種枝肉はB−3以上、肉専用種枝肉はA−4以上を目指し、コストは2〜3割削減することであった。これはアメリカやオーストラリアから輸入される牛肉の大半はC−2で冷凍肉が多いと考えて、この程度の牛肉を生産すれば国産牛肉は家庭向けに利用され、輸入牛肉は業務用につかわれて市場で互いに住み分けができるとも考えられた。

  昭和63年から平成元年にかけては国産牛肉の価格が上がったが、バブル経済による牛肉需要の拡大と輸入牛肉の販売体制やアイテム開発が未熟であったためである。しかし、平成2年には乳用種の枝肉価格は下がり、この外の品種では枝肉価格が上がり、平成3年には乳用種と褐毛和種の枝肉価格が下がり黒毛和種の枝肉価格だけ上がり、品種間で枝肉価格に二極化が生じた。平成4年には、枝肉価格の二極化の分岐点が黒毛和種枝肉内に入り、さらに格付け上位に移動し、平成5年には黒毛和種枝肉価格も低下した。

  この間に枝肉価格が上昇した理由はバブル経済により高級な肉ほど良く売れたこと、枝肉価格が低下した理由は輸入牛肉の増加によるものであったが、平成5年以後の枝肉価格の全面的な低下はバブル経済の崩壊による不況感が高まったこと、急激で大幅な円高、さらに金融不況など、次々に起こる社会的変化が反映したもので、平成5年頃からは消費者の値頃感に合った枝肉作りが強調され始めた。

  肉牛肥育では昭和63年頃から、乳用種肥育からF1肥育に切り替えたり、黒毛和種に切り替える動きも生じて黒毛和種子牛価格が上昇し続けたが、平成5年には下がり、BSE発生までは比較的安定した状態であった。また黒毛和種子牛の中でも良い系統の子牛とそうでない系統の子牛の間の価格差が極めて大きくなったので良い枝肉を作ったからといって必ずしも収益が高いとは言えない状況になっている。育種改良の面では育種価による種牛の能力評価が進み、今後の改良に大きな効果が期待できる。このように、牛肉輸入自由化以後生産者の間で肉質志向が著しく高まったが、今後は肉質改善だけでなく牛肉生産の低コスト化や安全性も配慮した牛肉生産を行うことが必要になっている。


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